「他者に性的/恋愛的な惹かれを感じない」アロマンティック/アセクシャル(Aro/Ace)で、あらゆる差別に反対するフェミニストで、ADHDで、ドラァグ・パフォーマーの「Moche Le Cendrillon」による初めてのZINE。
間違った偏見を持たれたり、情報にアクセスしにくかったり、クィアコミュニティの中でも透明化されたりしやすいAro/Aceの、多様で複雑な経験について語り、書き残し、"あなた"とシェアするために制作されました。
Aro/Aceのオンラインコミュニティで用いられる象徴の一つに「ケーキ」があり、「セックスよりもケーキが好き」といった冗談に由来しています。まとまらないエッセイやもたついた対談、極私的で個人的な私の経験という名の「ケーキ」を、お茶を飲みながら他愛もないお話をするように楽しんでいただけたら嬉しいです。
SNSのタイムライン上でたまたま見かけ、アロマンティック / アセクシャルのADHD当事者の「極私的で個人的な私の経験」という点に惹かれるものがあって購入した。
「一次創作の同人誌」には過去たくさん触れてきたが、昨今の「ZINE」と銘打たれるようになってからは初めての個人制作本の購入になる。
大変、興味深く拝読させていただいた。
ZINEらしい小冊子的ページ数(全80p)に対して、その中に詰め込まれた文量と情報、そして熱量には並々ならぬものがある。
自分は1時間半ほどで通読してしまったが、章立てごとに一晩一章ずつ、それこそケーキを一切れずつ食べるような気持ちで読むスタイルの方が、よりよく味わえるタイプの作品だと思う。
エッセイ、コラボ対談、コラムなどがばらけて配置されているので、順番に読むと飽きがこない。
読了してまず思ったことは、共感できる言葉がひとつもなかった、という興奮だった。
誤解されたくないので弁明しておくが、けして悪い意味ではない。
アロマンティック / アセクシャルで、ADHDである、という共通点のもとに辿りついたはずの価値観にたいして、一切の共感を感じることができなかった。
絶対に交わることのなかったであろう価値観との出会いに、感動の興奮を覚えたのだ。
事実として、この一冊を読んで、そうして受けた印象と興奮を、こうしてしたためている。
自分は著者自身も、その対談相手も、ジェンダーマイノリティの人々のコミュニティや、そのような場で使われる表現や単語のことをほとんど知らずにこの本を手に取っている。
フェミニズムをはじめとした社会運動の類にも、その思想と歴史は尊重するが、活動・運動という名の集まりや、それに積極的に参加する人々には苦手意識がある。
著者の活動内容を事前にもっと詳しく知っていたら、自分はこの本を手に取らなかっただろう。敬遠さえしていたかもしれない。
本文中の表現を借りるなら、アロマンティック / アセクシャルであるわたし(あなた)は同じ傘の下にいるらしい。
一緒にしないでくれ、とまず思った。
どの点からどれほど共感ができなかったか、という観点から、この記事は書かれている。
再三になるが、この本自体は大変すばらしいものだ。
文章も、情報量も、そこに含まれるしずかな配慮にいたるまで、とても気を遣って書かれているものだとよくわかる。
この本に救われる人はまちがいなくいる。苦しんでいる人の助けになるものだ。
その上で、一応、おなじく当事者であるはずの自分はなにひとつ共感できなかった、とつづく。
この感想自体が、たとえアロマンティック / アセクシャルとカテゴライズされる当事者同士であっても、まじわらないに等しい違いと幅があると示すものだと思っている。
そもそもアロマンティック / アセクシャルとは
アロマンティック / アセクシャル (本文中ではAro/Aceと表記されているが、私個人としてはこの表記に違和感があるため、あえて略さずに明記することにする)とは、恋愛的にも、性的にも他者に惹かれないという性的指向であることを指す。
詳しいことは、他メディアやLGBTQ+に関連するコミュニティの発信する情報の方がよっぽど正確だと思うので、各々で調べてほしい。
本記事ではひとまず、「他者に恋愛感情も性的感情も抱くことのない人」程度の理解で問題ない。
なぜ怒りを覚えているのかわからなかった
著者のMocheさんは、文中で「怒り」が原動力にあると述べている。
読み終えて思うのは、怒りと連帯(あるいは共感)がこの人を突き動かしている源だ。
怒りとは、期待を裏切られることで発生する感情だ。
意識的かどうかにかかわらず、なんらかの期待をかけていたものに裏切られる。
怒りが発生し、期待していた形に変えようという意識がはたらく。
いったい、誰に、何を期待してこの人は怒りを覚えているのだろう?
どんな社会であれば、この人は怒りを抱かなくなるのだろうか?
「あらゆる差別に反対するフェミニスト」だと著者は表明しているので、あらゆる差別をなくしたいと思っている。それらに対する怒りを覚えている。
ではその差別をすべてなくし、どんな社会を目指したいのかが、自分は本文中から読み解くことができなかった。
著者の怒りの源泉がそもそも理解できていないので、共感を抱けないのも当然だ。
また、文中で著者が苦痛な体験として話す、「恋愛が当たり前に存在している文化圏における会話」。
そういった経験が、過去、自分にはない。経験にないので想像しにくく、それがますます共感を妨げているように思う。
F××KOFF事案、誰に対しても言っちゃダメでは?
アロマンティック / アセクシャル的に言われて嫌だった、最悪だったという言葉の紹介コラム欄がある。
言われているところも、言っているところも、幸いにしてか自分は出くわしたことがない。
ないが、性的指向やジェンダー自認にかかわらず、そもそも他人に向けて言ってはいけない言葉群ではなかろうか。
そういう言葉を何気なく放てる人が当然のように周囲に存在しているならば、その環境に対して考えなければならないことがあるように思う。
ここでいう「環境」とは、社会全体や世間一般と呼ばれるような漠然としたものではない。
「プロジェクト打ち上げの飲み会の場」とか、「趣味のオフ会」のような、もっと小さく限定された具体的な場のことだ。
周囲がそれを容認したり、暗に推奨する雰囲気を持っていたのか。それとも、言葉を放ったその人個人の問題なのか。
どちらであるかを考えるだけでも、印象や受け止め方は大きく変わってくるように思う。
自分の肉体って自分のためだけに存在しているものじゃないのか?
これについては本当に、まったく一切、考えたこともない視点で新鮮だった。
自分のためだけに自分の肉体のことを考えるのは難しい。自分というのは他者から見た他者だという言葉があるけれど、人は皆そんなに簡単に他者と自己の区別がつけられるわけでもないから、他者だとしても放っておくことができない。身体の美醜に関してはすぐに境界を踏み越えてしまう。
p.50 コラム「からだに関するいくつかの小話」
正直、「うそでしょ……」と思った。
この人生30年ほど生きてきて、自分のためだけにしか自分の肉体のことを考えたことがなかったからだ。
ただ、これは自分があまりにも、ただ生きているだけのはずなのにすぐ健康を損なう脆弱な肉体を抱えてきたことによるものかもしれない。
家族から「太りすぎじゃない? 痩せたら」と指摘されたことは当然ある。しかしそれは美醜とは関係がない。
身長にたいして健康的な体重を示す数値が世には存在していて、その健康的な範囲から外れている。つまり健康を損なうリスクを伴う、というただの事実を示しているだけだ。
五体満足で健康な肉体であることは、その他のことを考える余裕を生む。
それだけの余裕が自分にはなかった、というだけなのかもしれない。
それでも読んだ価値は間違いなくあった
ここまで「共感できなかった」「理解できなかった」点ばかり述べてきた。
だが、だからこそ、読んだ価値があったと断言できる。
著者がシェアした「極私的で個人的な経験」は、アロマンティック/アセクシャルという同じラベルを持ちながらも、自分とはまるで異なる価値観と文化圏にある話として届いた。
自分にとって、この本でシェアされたケーキはチョコミントケーキだった。
著者が思いを込めて丁寧に手づくりしていて、味も見た目もすばらしい。
しかし、自分はチョコミント味が嫌いだ。
味も見た目もすばらしいと認められても、そのすばらしさへの共感はできなかった。
そんな感覚の読書体験だった。
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